所の法に矢は立たぬ

徳川時代においては
 徳川時代においては、階級思想がだんだん盛んになって、普通民は多数のいきおいをもって彼らを馬鹿にする。彼らは由緒を称えてこれに反抗する。ためにたびたび悶着が起った。京都梅津の唱門師たる産所の者の出入りに関する『以文会筆記』の記事は、柳田君も引いておかれた。多くの場合において普通民は彼らをエタの類といっていた。正徳二年には、備後の茶筅とエタとの間に上下の争いがあって、エタの勝利に帰した例さえみえている(「特殊部落研究号」八九頁)。しかも彼らの亜流たる沙弥・鉦打の徒の如きは、幕府の奉行所においては普通民よりもより多く敬意を払われていた。彼ら自身が百姓よりは身分よろしき者と心得ていたのにも確かに理由はある。しかし時勢の推移には敵し難かった。彼らはついに公儀においても、概して身分賤しきものと認定せらるるに至った。

 きわめて徹底しない判定ではあるが、ともかくこれによって、為政者なり世間なりの彼らに対してみたところを知ることができる。
 要するに声聞師の社会上の地位は、境遇によって高くも低くも変じていったものである。もと猿引などとともに七道の者と呼ばれ、五ヶ所・十座の唱門の進退に委せられておった猿楽の能役者などは、早くから立派な身分となって、将軍・大名にも近づいていたが、同じ流れを汲む手猿楽・辻能の徒は、やはり後までも非人として扱われていた。しかも基本を糺せば、いわゆる七道のものも、またこれが支配の地位にいた唱門師と同じく俗法師の徒である。そしてその仲間からエタになったものすらもあったと認められるのである。薬学生の質問掲示板 定期試験・進級・CBT・薬剤師国家試験対策