所の法に矢は立たぬ

例えば、あゆについていうなら
 例えば、あゆについていうなら、『食道楽』の著者村井弦斎などのあゆ話にはこんなミスがある。「東京人はきれい好きで贅沢だから、好んであゆのはらわたを除き去ったものを食う」ここが問題なのだ。東京人がきれい好きだからわたを抜いて食うというのは大間違いであり、東京人がきれい好きというのは、この場合、余計なことだ。
 要するに、村井弦斎が東京人かどうか知らぬが、彼のあゆ知らずを物語っている。はらわたを除き去ったあゆなどは、ただのあゆの名を冠しているだけのことで、肝心の香気や味を根本的に欠くので、もはや美味魚としてのあゆの名声に価しないものである。
 これはたまたま当時、急便運送不可能の都合上、東京にはらわたがついたままのあゆがはいり得なかったまでのことで、弦斎の味覚の幼稚さを暴露したものである。今日食道楽といわれているひとの中にも、ずいぶんこの種のひとがいる。彼らの著書をみれば一目瞭然である。一般的にいえば、彼らの著書の内容は、辞書の受け売りや他人の書物のつぎはぎで、著者自身の舌から生み出された文章はまったく稀である。
 とは申しても、素人にはとんと見当のつかぬものが多い。中には、自分でろくに食ってもいない食品の味にして、とやかく述べているものもある。かような書物を体験談として真に受け、その耳学問に傾聴するひとがあるかと思えば、また、いつかのそのインチキを受け売りするひともある世の中だ。

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