所の法に矢は立たぬ

しかるに私の見る世人の多くは
 しかるに私の見る世人の多くはというと、十人が十人、味覚にうとく、美味い不味いの判別を全く欠いているのである。生活に余裕を失った現状にあっては、無理もないことと許せないでもないが、多くの人々の心構えにも間違いがないとは言い切れない。
 よくなにが食いたいとか、なにを食うかとたずねられる場合、私はなんでもよい、僕もなんでもよいと、冷然たる受け言葉が間々見られる。これほど不見識な挨拶はないのであるが、別段ふしぎでもなく、まかり通っている。けだし無価値な人間なのではなかろうか。なになにが食いたいという好みは、口になじむばかりではない。言い換えれば、その時の自分にピッタリした栄養を求めていることなのである。家畜のように宛てがわれた食物を無条件に鵜呑みでは、臓器栄養部では充分の能動に事欠くであろう。好むものを食って楽しみ、好みの栄養を摂ってこそ、個性は生かされるのである。
 近代人には近代人の食いものがあろう。なにを好もうがそれは自由であるが、不見識に付和雷同し、各個の自由を見失っている場合、少なしとしない。小生はこれを憂うるのである。三鷹 歯医者